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COSMOSの原発関連ニュースメモ

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毎日たくさん流れてくる原発関係のニュースの個人的なメモです。

「そして’安全神話’は生まれた」文字起こし(4)



【解説】:その裁量権を認めた司法。原発建設は更に進むかに見えました。

【画面】:日本初の原子力船「むつ MUTSU」の進水式の映像

【テロップ】:原子力船「むつ」

【解説】:日本で初めての原子力船「むつ」。

【テロップ】:「むつ」放射線漏れ事故 1974年9月1日

【解説】:この船のトラブルがきっかけで、国の原子力政策が国民から疑問視されるようになります。太平洋上での出力実験中に、放射線漏れを起こしたのです。基本設計の安全性を審査した科学技術庁と、船の建造を管轄する運輸省が、責任を押し付け合ったため、非難の声があがりました。

【テロップ】:島村原子力政策研究会 1992年

【解説】:島村原子力政策研究会。むつの問題に関わった官僚たちが、原子力行政の見直しを迫られたことを語っています。焦点は1956年に設置されて以来、日本の原子力政策を担ってきた原子力委員会のあり方でした。

【テロップ】:元通称産業省官僚 島村武久

[元通称産業省官僚 島村武久]:「原子力船「むつ」の放射線漏れが1974年9月1日にあったわけですけれど、これが直接の動機だったことには間違いはないんですが、それまでに原子力発電所でいろいろ、まぁ・・事故っていうのは変ですけれども、[◆註:27](事故が)あったりとか・・あるいは、分析研究(放射線の研究所)の問題もありましたね。なんだかんだという、いわゆる不祥事みたいなものが相次いで起こったと・・。これも「むつ」で頂点に達したということだと私は思うのですよ」

[◆註:27]原子力推進関係者の間では「事故」の言葉は敢えて使わず、「事象」という言葉に置き換えられて表現されている。

【テロップ】:科学技術庁官僚 沖村憲樹
[科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「原子力委員会に対する批判といたしまして、まず原子力行政の責任体制が不明確であるということが批判の大きなものであると。それからもうひとつは、規制と推進が同じ組織で行われているということに対しまして、国民の間で不信感が起きているんじゃないかと・・」[◆註:28]

[◆註:28]「規制と推進が同じ組織で行われていることに対し国民の間で不信感が起きている」というのは、原子力委員会が原発を推進しながら、安全審査等規制にも係わる役割も担っていたことを指す。

【テロップ】:原子力委員会 開発 規制

【解説】:当時の原子力員会は、原発を推進しながら、安全審査等、規制に係わる役割も担ってきました。このことが問題とされたのです。

【テロップ】:科学技術庁官僚 沖村憲樹

【画面】:「沖村憲樹 028」のラベルの貼られたカセットテープの画面

[科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「当時はエネルギー問題がですねぇ、非常に、まぁ、重要な問題ということで、石油が足らなくなるっていうことで、原子力に非常にシフトしなければいかんという議論があったわけなんですけれども。一方におきまして、まぁ・・あの・・不安・・国民の不安ということから、(原発の)立地がなかなか進まないということで、これをまぁ、進めるためには・・・・行政機構全体を一回、いじってみなきゃいけないんじゃないかっていうようなことも、背景にあったんじゃないかというふうに思いました。要するに行政全体を見直す委員会をつくらなきゃいかんっていうのは、なんとなく大きな世論みたいな感じだったというふうに記憶しておりますけれども」

【テロップ】:原子力行政懇談会 1975年

【解説】:1975年、政府は原子力行政懇談会を設置。有識者に原子力行政のあり方を議論してもらいました。そこで出されたのが原子力行政を規制する強力な組織、原子力規制委員会を求める意見でした。

【画面】:11555
UNITED STATES
NUCLEAR
REGULATORY
COMMISSION
と書かれたビルの標識

【テロップ】:アメリカ原子力規制委員会(NRC)

【解説】:参考とされたのは、アメリカで行われた改革でした。



【テロップ】:アメリカ原子力規制委員会(NRC)→規制→原子力事業者

【解説】:アメリカでは強力な権限を持って、原子力関係機関の規制に当たるNRC、原子力規制委員会が作られていました。ところが(1975年に開催された我が国の原子力行政の)懇談会の事務局を勤めた沖村憲樹さんによれば、アメリカのような組織を作ることには、反対意見が多かったといいます。

【テロップ】:元科学技術庁官僚 沖村憲樹さん

[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「やはり規制だけを集中的に考える機構はですね、原子力開発の根幹である炉の設置許可とか、運転とかを全部握るわけですよね・・そういうことで原子力の開発が旨くいくんだろうか・・っていう意見[◆註:29]が、随分寄せられました。

[◆註:29]こうした意見を寄せたのは一体誰なのか?

[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「非常に反対意見が根強くってですね。はっきりおっしゃる方、はっきりおっしゃらない方も含めて、やはり、あの・・アメリカ型の規制委員会っていうのはですね、日本の原子力開発の将来に懸念がある、って言うので反対意見だったというふうに思っています」

【解説】:1976年7月、原子力行政懇談会は最終の取りまとめを、元三木首相に提出します。これを受け、原子力委員会を分割し、新たに原子力安全委員会を発足させます。

【画面】:科学技術庁
科学技術会議
原子力委員会
宇宙開発委員会
原子力安全委員会
の標識

【解説】:規模はアメリカNRCの僅か10分の1程度。権限も限られていました。

【テロップ】:原子力安全委員会→助言・提言→監督官庁(経済産業省・文部科学省など)→規制→原子力事業者

【解説】:電力会社などを指導する場合には、意見を述べるだけに留まり、直接、支持、命令する権限はありません。

【テロップ】:島村原子力政策研究会 1992年

[発言者不明]:「ちょうどあの時でしたからね。アメリカが二つに分かれたでしょう」

【テロップ】:元日本原電 板倉哲郎

[元日本原電 板倉哲郎]:「アメリカもね、失敗はしたと思っているところは多いんですね。あれでもう、さっぱり開発がなくなりましたからね」

[発言者不明]:「ううん・・もう開発がなくなりましたからね」



[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「結果的に15年経ってみても、原子力の反対も安全委員会が吸収してですね、原子力発電も滞りながらも、まぁ、スムーズにいってますので、この体制も、まぁ、結果的にはよかったのではないかというような気がしますけど」

【テロップ】:元日本原子力研究所職員 佐藤一男さん

【解説】:早くから原子炉の安全運転に取り組んできた佐藤一男さんは、新しくできた原子力安全委員会で仕事をするようになりました。

[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「安全なんていうことを口にするな、と・・・。安全の研究なんかとんでもないと・・。そんなものはね、国民を不安に陥れるだけじゃないかと・・・と言うんでね。そういう風潮がわりと強かったんですよ、ええ・・・。あの・・で、だからね、安全性なんてことを銘打った研究はね、まず、とても死ぬまで日の目を見ないですよ、そんなことは・・ええ・・。そういう時代がだいぶ続いていたんですよ」

[NHK記者の質問]:「それで?安全のことを言ったらどうなるんですか?」

[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「そりゃ・・村八分だからね。言うなれば・・。誰も相手にしなくなっちゃうんだから・・」

[NHK記者の質問]:「どこから村八分にされちゃうんですか?」

[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「だから原子力ムラからですよ・・ワハハ・・いやねぇ・・村八分って言うのは、まぁ、単なる表現ですが、あの・・そんなことを言う人はねぇ・・仲間外れにされちゃいますから・・」

【解説】:100万分の1という大事故発生の確率。原発は限りなく安全だという考え方に疑問を抱くことをタブーとする暗黙の了解が定着しつつありました。そんな矢先でした。

【テロップ】:スリーマイル島原発事故 1979年3月28日

【解説】1979年3月28日早朝、アメリカ、スリーマイル島原発で安全装置ECCSが停止し炉心溶融事故が起きました。原子炉からは大量の放射能が大気中に放出され、数万人の住民が町から非難する事態となりました。

【テロップ】:スリーマイル島原発事故に関する学術シンポジウム 1979年11月26日

【解説】:アメリカで起きた事故は日本の研究者を動揺させました。スリーマイル島の事故を受け、これまで原子力政策に協力してきた研究者たちは、事故を検証するシンポジウムを開きました。しかし、原発の危険性を訴える研究者たちが排除されようとしたため、激しい対立となりました。スリーマイル島原発事故の直後、伊方原発訴訟の控訴審が高松高等裁判所で始まりました。

【テロップ】:原告側準備書面

【解説】:原告側は、国が立地審査の際には、想定していない、想定不適当事故だとしていたメルトダウン事故が起きた以上、原発許可は無効だと、改めて訴えました。

【テロップ】:原告側証人 藤本陽一

[原告側証人 藤本陽一]:「スリーマイル島原の原子力発電所で起こった事故は、論争の経過を言えば、"想定不適当"な事故に属するものでございます。スリーマイル島の事故で出ている放射能は、伊方の安全審査のときの最悪の仮想事故の数字を上回る量で、数十倍に達する量が出たわけです」

【テロップ】:国側証人 佐藤一男

【解説】:二審で国側証人に立ったのは、佐藤一男さん、たった一人でした。
[国側証人 佐藤一男]:「運転員と呼んでよろしいかと思いますが、この人たちの誤った判断に基づく行動によると思います。それが決定的な要因でございます」[◆註:30]

[◆註:30]スリーマイル島原発事故の原因が、同発電所原子炉の運転員の「人為的ミス」が事故原因であったとの、国側証人佐藤一男氏のこの証言を松山高裁判事たちはどう評価したのか?100万分の1という確率の事故を想定することは、想定不適当事故であるとした、一審判決の判断根拠の中に、人為的ミスも含まれていたのか?それとも人為的ミス(いわゆるヒューマン・エラー)は一切考慮されず、設計工学上での事故の発生確率だけに基づいただけの「想定不的確」の判決であったのか?一審も含め二審以降の判決を下した判事たちの判断内容、彼らの思想内容も含め、改めて再検証されねばならない。

[国側証人 佐藤一男]:「従って、その設計そのものが直接の決定的要因になっているということではございません」

【テロップ】:「国側証人 佐藤一男」「原告側弁護士 仲田隆明」

【解説】:原告側は、一審で、国側が起こることはないとしたメルトダウンが現実に起きたことを問い質します。

【テロップ】:原告側弁護士 仲田隆明

[原告側弁護士 仲田隆明]:「メルトダウンにより、圧力容器が割れたら、放射性物質が全部外へ出てしまいますね。大変なことになりますね」。

[国側証人 佐藤一男]:「はい」

[原告側弁護士 仲田隆明]:「国のほうでは、いや、それは破損することはない、という前提に立ってますね?」

[国側証人 佐藤一男]:「はい」

[原告側弁護士 仲田隆明]:「住民のほうからは『圧力容器だって破損しないという保証はないじゃないか』と主張しておった。これはご存じですか?」

[国側証人 佐藤一男]:「私は、直接は目にしていないと思います[◆註:31]。ただ圧力容器が破損するかどうかという問題は、いろいろなところで論じられております」

[◆註:31]ここの佐藤一男の陳述内容は不鮮明で解りずらい。二様に解釈できる。ひとつは「圧力容器の破損した原子炉の現場を、国側証人の佐藤一男氏自身が彼自身の目で直接は見たことが無い」という発言にも受け取れる。

 しかし、この陳述では、原告側弁護士仲田隆明氏の「これはご存じですか?」の問いへの答えになっていないトンチンカンな陳述になってしまう。もうひとつは「住民の誰かが『圧力容器だって破損しないという保証はないじゃないか』と(法廷か法廷外で)語っている姿を、佐藤一男は「直接は目にしていない(目撃したり聴いていない)」という意味なのか?私(諸留)は前者の意味での佐藤一男氏の発言だったと思われるが・・・

[原告側弁護士 仲田隆明]:「圧力容器の破損に対しては、安全装置が無いんだということ、これはいいですね?」

[国側証人 佐藤一男]:「破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」[◆註:32]

[◆註:32] ここで、国側証人佐藤一男が、「(圧力容器の)破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」と発言しているのは重要な発言。
福島第1原発1号機~5号機で使われている「Mark I」原子炉の設計者で元GE(ゼネラル・エレクトリック)社社員のデール・ブライデンボー(Dale Bridenbaugh)氏及び、同原発の基本設計士であり、また同原発6号機工事現場監理者でもあった菊地洋一氏自身が『週間現代』4月16日号で以下のような証言を行っている。

・・・「MarkI」が抱えている問題点は、その後の改良である程度は是正された。格納容器にガス放出の為のベント弁(ウエットベント弁とドライベント弁の二種類あり)が取り付けられたのは、ブライデンボー氏の証言から解る通り、設計当初からでなく、アメリカでは1990年頃になって、後から設置されたとの証言がある。従って伊方も福島原発も含め我が国の原子炉では20年以上もベント弁が備わっていない状態で「安全基準を満たしている」との政府や東京電力の「お墨付き」の「安全神話」で擬装させ国民を欺し続けてきていたことがブライデンボー氏の証言から明らかにされている。

 アメリカでは1980年代後半になって、彼の訴えの一部が認められ、圧力を逃すガス放出弁を取り付けることが義務づけられ、1990年頃にアメリカ国内のすべての「MarkⅠ」に、この弁が設置された。「MarkⅠ」オーナーズグループのアドバイスは東京電力や福島第1原発にも届いていた筈。しかし実際に福島第一原発など我が国の原子炉へのベント弁設置を、原子力安全委員会が言い始めたのが、1992年以降であった。しかも放射能防塵フィルターは設置さなかった!

(井野博満編/井野博満・後藤政志・瀬川嘉之共著『福島原発事故はなぜ起きたか』79頁。藤原書店2011年参照)

 この伊方原発訴訟の原告が高松高等裁判所に控訴したのが1978年(昭和54年)4月。高松高等裁判所で控訴審が始まったのが1979(昭和54年)年からで、控訴審で請求棄却判決が下ったのが1984年12月。従って、国側証人佐藤一男が正直に証言している通り、伊方原発も含め、その当時の日本国内にはベント弁すら設置されていない状態であった。

[原告側弁護士 仲田隆明]:「日本では破損しない前提で安全審査をしているんですね?」

[国側証人 佐藤一男]:「さようでございます」

【解説】:佐藤(一男)さんは、原発事故発生の確率は、100万分の1という国の主張してきた安全性を、たった一人で背負って争うことになりました。

[国側証人 佐藤一男]:「それはね・・・あの・・誰が言ったのかっていう事になるんすよね、そんなことのね。それでね、住民の方でね。そいういうのは耳障りがいいからね。そっちのほうを、『うん・・・そうか・・』って、思いたくなるんですよね」

[NHK記者の質問]:「国が安全だ、って言っているからですね・・」

[国側証人 佐藤一男]:「あぁ、あぁ・・だって、安全だって言われたほうが安心でしょう、ねっ?だけどね、それはね、そういうことを言っているその人は、本当にそういうことを思ってそう言ったんだろうか?」

[NHK記者の質問]:「それって、どういう事ですか?」

[国側証人 佐藤一男]:「いや、あのね。その場しのぎのことを言ったのかも知れないですよねっ。あるいは、本当にそう思ったんだとしたら、その人はそういう仕事をする資格に欠けていたのかも知れないよね。逆にね。うん。そんなねぇ、いい加減な事で、安全する資格に欠けていたのかもしれないな・・・逆にね。『そんなねぇ、いいかげんなことで、安全を担当していたんですか?』なんて、言いたくなる話でしょう?だからね、そういう話しをね、あの・・・実は非常に後になってね、災いを残すんです。いろんな意味で。あの・・だからねぇ、あの・・そういことを言う人たち、言った人たちっていうのは、もうお亡くなりになったり、死んだりしちゃっているからさぁ、まぁ、いいかもしれないけれど、後継者はひどく苦労するんですよ、ええ・・・」

(5)につづく

by y_csm521 | 2011-11-28 13:11 | 資料・情報・講演

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